『諸君。



「愛しい」という言葉を知っているだろうか。



知っているならばどうかぜひ、この言葉を‘いとしい’などと読まないでくれ。



‘かなしい’と読んでくれ。



事実、これは確かにそうとも読む。



愛とはかなしいものなのだ。』





(・・・‘悲しい’‘哀しい’ものなのだ。)





・・・なんだっけ、これ。



誰かに聞いたんだっけ。



・・・違うか。教科書・・・。



そうだ。確か国語の授業で読んだんだ。



かなり、前に。



くだらない哲学者の評論文。



かなり、前に。




(・・・なのに。)




なぜか突然、それを思い出した自分がいた。










諸君。



「愛しい」という言葉を知っているだろうか。



知っているならばどうかぜひ、この言葉を‘いとしい’などと読まないでくれ。






















‘かなしい’と読んでくれ。












































『赤い目の兎』












































幸村部長に、レギュラーとさんで会いに行った日。



病院の屋上で晴れわたる空に、自嘲した。



ブン太さんは真剣な目で俺のこと見て。



さんは目を見開いて、ただ驚いてた。



(・・・・・俺は。)



・・・・何言ってんの、俺。





「・・・・お前、本気って言ったろぃ。」


「・・・・俺?・・・本気でしたよ。」


「あっ・・・赤也?」


「俺、本気。・・・・98%本気。2%冗談。」


「赤也っ・・・・・」


「よかったね、さん。」


「え?」


「(!)赤也っ!!」





あのとき。さんの手に触れて、俺の心臓は正直やばかった。



うるさくて、さんに聞こえてないか心配だった。



触れるだけじゃ悔しかったから。



その白くて小さな手に幼く口付けた。





「よかったね・・・・・俺が100%本気じゃなくて。」





何言ってんの、俺。





「赤也、てめっ・・・・・」


「へへっささやかな抵抗。」





何言ってんの。



好きだったっつーの。



100%どころか。








































































どうしようもないくらい。





































































































































































好きだったよ。





「・・・おい。」


「・・・・・・・」


「おいこら、バカ也。」


「・・・・その呼び方よしてくださいよ。」


「いい度胸じゃな。先輩が来たのに、仰向けのまま寝てるなんて。」


「・・・・何言ってんすか。」





屋上の床に仰向け。



腕を頭の後ろに回して寝ていた俺。



閉じていた瞼。



開ければ、まぶしいばかりの太陽の光と同時に、目の端に銀の糸みたいな髪がゆれて見えた。



俺の近くで立ったままのその人の顔を、俺はからかうように笑いながら、上半身を起こして見上げた。





「今授業中っすよ。サボりに先輩も後輩もないっしょ。」


「俺は年上。お前は年下。それだけで十分それは成り立つ。」


「・・・・一つしか違わないじゃないっすか。」


「くくっ・・・・すねるなすねるな。」





別にすねてない。



そう思っても声にはしない。



仁王先輩が俺の頭をポンポンッと叩くのを俺はさも嫌そうな顔して振り払う。



俺が仁王先輩のほうを思わず睨み見ると、仁王先輩は意外にもにこっと笑って返してきた。



それに迎え撃つのは俺の怪訝な顔。




(・・・・・何、その笑み。)




雲ひとつない晴天。



太陽の光と青い空がまぶしい。



けれど暑いのではなく温かい。



サボるにも昼寝をするにも、今日はまさに絶好のなんとか日和だったわけだ。





「・・・お前さんいつからここに?」


「さっきここに来たばっかっすよ。」


「ふーん。」





仁王先輩は俺から視線をそらすと、屋上のコンクリートを踏み鳴らして、



屋上を一周囲む手すりのところまで歩いていった。



俺は、手すりに両腕を乗せて体の重心を傾けた仁王先輩の後姿を見る。



この人もなんとか日和に誘われてここに来たんだろうかと、胡坐をかいてちょっとだけ考えてみた。





「・・・・俺はもっとお前ががんばる奴だと思っとった。」


「・・・・はい?」


「もっとしつこくて、もっと粘って、もっとわがままで、もっと勝手で、もっと・・・・・」


「ちょっ・・・待ってくださいよ・・・・なんの話っすか?」





俺に背中を向けたままの仁王先輩の声。



だけど、あまりに晴れた空と、温かいばかりの軽い空気の中では、その声はまっすぐ俺に届いた。



ただ何について俺の話をしだしたのかはまったくわからなかった。





「・・・仁王先輩?」





その銀髪をゆるい風になびかせるだけで。



俺の問いかけにこっちを見ることも、返事をすることもない。



仁王先輩が何考えてるんだかよくわからないうえに、完全に無視されているこの状況は俺を苛立たせた。



ずっと手すりにもたれて、その向こうのほうを見ているのか。



目線は下のほうにあって。



・ ・・ってかさ。



気になって、すぐさま胡坐をかいて座っていた屋上の床から立ち上がった。



仁王先輩が、手すりの向こう。



校舎の下にある何かを見てる。





「仁王先輩、さっきから何見てっ・・・・・」





俺は、(仁王先輩を真似してじゃないけど)屋上の手すりに両手を乗せて重心を傾け、仁王先輩の隣に立って、その視線の先を追いかけた。



真下に広がるグラウンド。



体育の授業なのか、まばらにいるたくさんのジャージ姿の生徒達。



その中で、すぐに見つけた姿。





「(・・・・・さん。)」





体育教師がそう指示したのか。



大きな楕円が白線によってひかれたトラックを生徒たちは走り始めた。



さんは、同じクラスの友達なんだろう女子たちと一緒に走っていた。




(・・・あ。)




笑った。



ずっと見てしまう。・・・見つめてしまう。



ずっと、見ていたい。



あの日。



屋上の晴れ渡る空に、自嘲した。





「・・・・。クラスの奴らとうまくやってるんじゃな。」





思考によどんでいた俺の頭を、その声が駆け抜けた。



俺の隣に立ち、その視線の先にさんを見たままの仁王先輩の横顔。



ぼーっとさんを見ていた俺ははっとして、視線を仁王先輩に向けていた。



仁王先輩はいつもみたいに、何かを企んでるような笑みを見せていない。



ただ口角をあげて、静かに笑っていた。





「・・・・・気付いてたら早く言ってくださいよ。自分ばっかり。」


「・・・ん?」


「・・・さんがいるの。」





俺はちょっとむすっとして、またさんを見た。



仁王先輩が俺のほうを見ているのがわかっていたけど、



くくっと喉で笑われて、対抗する気もうせていた。





「「・・・・・・・・・あ。」」





突然俺と仁王先輩の声がかぶる。



グラウンドのトラックを走っていたさんが、ちょっとつまずいて転びかけた。



それを2人とも目撃していたから。



さんはどうにかこらえて、転ばずにすんだらしかったけど、友達にからかわれて笑われたらしい。



顔を赤くして、そのあとすぐに恥ずかしそうに笑った。



内心、さんが転ぶんじゃないかとひやひやしていた俺は、ほっと小さく息を吐いた。



その光景に跳ね上がった心臓がまだ鼓動を早めていたから、俺は静かに胸を押さえた。





「・・・なんであんなに危なっかしいんすかね。さん。しっかりしてると思うのに、どっか抜けてる。」


「・・・一生懸命すぎるんじゃろ。」


「?」


「・・・がんばりすぎて、真面目すぎて、それがほんの少し空回って、つまずいてしまうんじゃ。」





仁王先輩が淡々と言葉にした。



そんなこと、思いつきもしなかった俺は、仁王先輩の横顔から視線をそらしてさんを見たまま、何も言えなかった。



一生懸命すぎて、がんばりすぎて、真面目すぎて。



その姿しか見てなかったから、さんが時々失敗してしまうこと、なんでとしか思えなくて。





「・・・・・・・そういうところも、ダメだったんすかね。」





思わず、小さく笑ってしまう俺がいた。



ずっと見てしまう。・・・見つめてしまう。



ずっと、見ていたい。



好きなんだよ。



初めて見たときから、そうやって笑ってるさんが。





「・・・仁王先輩。」


「ん?」


「・・・さっきの話ってさんがらみ?」


「・・・がらみでお前がらみ。」


「・・・なんでっすか。俺がんばってたのに。」





仁王先輩の言葉を思い出してた。さっき唐突に話し始めたこと。



俺がもっとがんばる奴だと思ってたとか。



もっとしつこくて、もっと粘って、もっとわがままで、もっと勝手で、とか、勝手なことばっか言ってさ。



グラウンドにいるさんを見ていた。



俺も仁王先輩も。



・ ・・よかった。



笑っていてよかった。



もう、傷ついてる顔も、泣きそうな顔も、泣いてる姿も見たくない。させたくない。





「・・・・俺が思ってたより、お前さんはずっと大人しかった。」


「・・・・年下だからってなめないでくださいよ。」


「くくっ・・・・ガキ扱いを謝る気もないがな。」


「・・・・・・俺だって知ってるんですよ。」





何を?



声にはしない問いかけを、仁王先輩が俺にする。



さんから視線をそらして、俺も仁王先輩も顔を見合わせた。



太陽の光がまぶしかったから、思わず目を細める。








「・・・好きな人の、幸せを願うこと。」









俺が願ったのは、笑顔だったけど。



仁王先輩がまたしても「思ってもいなかった」と言いそうな顔。



目を見開いて、俺のほうを見るので、俺は思い切り余裕ぶって笑った。



でも、そんなの無意味。



本当は、余裕なんかなかったからだ。



仁王先輩の視線が鋭く思えて、すべてを見透かされるのは癪だったから、



俺はまたさんを見つめた。



手すりにのせる両腕に、口元をうずめて。






「・・・あの人が、教えてくれました。」


「・・・・・・・・・・あの人?」






静かに閉じた瞼の裏に、あの日の全てがよみがえる。



俺は見たんだ。



人を想うってことを。



俺は見たんだ。



残酷すぎて、綺麗過ぎる別れを。



赤い海に溺れていくかのよう。



かすれる声。



きっともう、言葉にすることさえ辛いのに。



最後に、伝えたくて、伝えたくて。



‘幸せに’って、伝えたくて。






「・・・・・だって、しょうがないじゃないっすか。」







だって、笑って欲しかったんだ。



あの人だってそうだった。



本当に心から、幸せになってほしかったんだ。



それを願ったんだ。



見上げた空に、自嘲した。





































































































































































































その日が、さんがマネージャーをやる最後だと聞かされた日。



部活のすべてが終わって、レギュラーたちはさんを見ていた。



その声を聞いていた。



突然崩れ込むかのように、その場にしゃがみこんだブン太さん。



苦しそうに胸を押さえて、震える声で言ったんだ。





「・・・早く、やめちまえよ。」





・・・何、言ってんの。





「早くいなくなっちまえよ。」





なんで、そんなこと言うんだよ。





「・・・・早く、消えちまえ。」





なんでだよ。



なんでだよ。



ブン太さんの突然の言葉に、目を見開き驚くしかできない俺。



何もできない俺は、傷ついても笑うさんの一生懸命な姿を見ているしかできなかった。



今までありがとうと。



ごめん、と。



哀しそうに笑うさんの声が、寂しく響く。



目の前で、俺の好きな人が泣きそうだった。






さんっ・・・・!!」



「赤也!追うな!!」



「なんでっ・・・柳せんぱっ・・・・」



「理由はお前もよく知っているはずだ。」






コートを去ってしまった姿をすぐにだって追いかけたかった。



柳先輩の俺を止める手を振り払ってでも。



でも、できなかった。




(・・・・わかってるよ。そんなこと。)




俺じゃ、無意味だ。



俺じゃ、ダメなんだ。






「ブン太さんっ・・・・!なんでさんにあんなことっ・・・・」


「・・・・・・・・・・・」


「っ・・・なんであんな言い方っ・・・・・」






(追いかけてよ。)




追いかけてよ。




(追ってよ。)




早く、追って。



追いついて、笑わせてやれよ。





「なんでブン太さんは、さんを傷つけるんすか?!」


「・・・・・・」


「なんでそんなに苦しそうな顔してっ・・・・・・」


「・・・お前が追いかけてやればいいだろぃ、赤也。」


「っ・・・・・・・・」


「俺はあいつにもう会いたくない。」





なんで、俺じゃダメなんだよ。





「・・・俺が、追いかければいい?」


「・・・・・」


「笑わせないでくださいよっ・・・・」





理由なんか。



・ ・・・理由なんか。



とっくに、知ってる。





「っ・・・・ブン太さんじゃなきゃダメだってなんでわかんないんすか?!」





俺は知らないんだ。



どんなに願ったって。どんなに想ったって。



さんがどうしたら笑ってくれるかわからない。



たった、一つを除いては。



選択肢なんて、始めからゼロだった。




(・・・あの人が、教えてくれた。)




大切な人の幸せを願うこと。



ねぇ、ブン太さん。あの人が教えてくれたんだよ。



ブン太さんの好きだった人。



俺が願ったのは、笑顔だっだけど。



だから、追ってよ。





「・・・・あんたの彼女は酷いよね」


「・・・・・・」


「あんたさ、やっぱりとりつかれてんだよ。」





想ってもいないこと。



一度だってそんなこと、想ったことはない。



でも、追って欲しくて。



吐き出すのは、自分でも腹が立つくらいの、最低の言葉。




(・・・でも。・・・・でも。あんたは。)




ブン太さんの気持ち。



どこに向いてるか、本当はわかってるんじゃないのかよ。











「最悪だね、ブン太さんの好きな人って。」











追ってよ。追いかけて。追いついて。



笑わせてやれよ。



ねぇ、笑ってよ。



その笑顔が、何より大切なのに。



目の前で、俺の好きな人が泣きそうだったんだ。



どんっとにぶい音がコートに響く。



ブン太さんが、俺の胸倉を掴み、俺をコートに倒して、押し付ける。





「痛っ・・・・・・」


「何も、わかんねぇくせに・・・・・」


「・・・・・・」


「何も、知らねぇくせに!!」





あの人が、教えてくれたんだ。



あの人が、言ってたんだ。





「あいつが言ってるんだよ!!が、言ってるんだよ!」





「幸せに」って言ってたんだ。



俺は見たんだ。



人を想うってことを。



俺は見たんだ。



残酷すぎて、綺麗過ぎる別れを。





「俺は他の誰も好きになんかならない!ずっとを好きでいる!!」






ブン太さんの目が、俺の目の奥を貫こうとしていた。



怒りで、憎しみで。





「俺が全部覚えてる!の全部を覚えてる!!死んだって、はいなくなったりしない!!」





寂しさで、哀しみで。





「約束したんだよ!この手は離れないためにあるんだって!」





苦しくて、もがいて。



でも、大切で。



拒否して、否定して。



それが、精一杯で。



あの人をいまだに好きだと言うブン太さんに。




(・・・・嘘だ。)




嘘だ。



そう、想うのに。






「俺はを守るんだよ!忘れない、絶対に!!」






それは嘘だと呼ぶには、あまりにも大きくて、あまりに大切な想いだった。






「忘れるもんかっ・・・・」






・ ・・・でも、ブン太さん。



でも、言ってたんだよ。



教えてくれたんだよ。



あの人が。



ブン太さんの好きだったあの人が。



大切な人の幸せを願う想い。



だから、願わせて。



あの人の笑顔を願わせて。



ブン太さん。ブン太さんの好きな人は、さんでしょ?






「・・・・・・・を、離したくない・・・・」






俺はブン太さんの目の奥に、あの日の赤く染まるすべてを見ていた。



赤い海と、絡まる赤。



それは、夕日を映した赤い目の兎のよう。




(・・・どうして。)




人を好きになることが、どうしてこんなに哀しいんだよ。



俺にはわからなかった。



俺にはわかることができなかった。



無意識の内に俺の頬を流れた涙の意味を、俺は未だに見つけられない。



気付けば仁王先輩の平手が、ブン太さんに向かっていた。





(・・・俺には、わからない。)





苦しそうな顔。酷く辛そうな顔。



そんな風にしてまで人を想うってことに、何の意味がある。



誰かを好きになるってことは、自分の気持ちを殺すことなんだろうか。



仁王先輩の酷く通る声が、俺の耳にまで届いていく。



涙が、止まらなかった。



ただ、笑って欲しかった。



だって、笑って欲しかったんだ。



あの人だってそうだった。



本当に心から、幸せになってほしかったんだ。



それを願ったんだ。



俺はそれを聞いてたから。




(だから。)




ブン太さんの幸せさえ、心のどこかで願ってたのかもしれない。







「心に、ごまかしはきかん。」







仁王先輩のブン太さんにむけられる声。



俺の耳にも届き、響き。



心に。



心に、ごまかしはきかない。



俺は。




(・・・俺は。)




本当は、さんに俺のことを見て欲しかった。



好きになってほしかった。



でも、さんの好きな人はブン太さんだった。



ただ、それだけのことだったんだ。



とても、単純なこと。



もう、泣いてる顔なんて見たくない。



泣きそうな顔なんて、傷ついた顔なんて。



だから。






が、泣いてるとよ。」






だからただ、笑っているあなたを願った。



笑ってて。



笑って。



初めてその笑顔を見たときから、そうやって笑ってくれるさんが好きだったんだ。



その笑顔が、何より大切だった。



選択肢は、ゼロ。






「・・・ブン太さん。」






俺は知らないんだ。



どんなに願ったって。どんなに想ったって。



さんがどうしたら笑ってくれるかわからない。



たった、一つを除いては。



その笑顔に、もう一度逢えるなら。






「・・・行ってらっしゃい。」


「っ・・・・・・・」






なんだって、いいよ。



俺のこと、好きになってくれなくたって。



俺じゃダメな理由なんて、わかってたから。



あの日。



ブン太さんの幸せを願ったあの人みたいに。



俺にとっては、これが人を想うってこと。

















































































































これが人を、好きになるってこと。

























































































































































































































































































<キーンコーン・・・・>





授業の終わりを知らせるチャイムが、遠くの方で響いて聞こえた。



さっきまでの授業は午前中の最後の授業だったから、これは昼休み開始のチャイムでもある。



無言のうちにそれを聞きながら、俺も仁王先輩もグラウンドのほうを見たままだった。



さんのクラスの体育の授業が終わって、生徒たちは教師に解散させられたらしい。



さんの姿が校舎のほうに消えて、見えなくなった。






「・・・ね、仁王先輩。」






俺はその場にしゃがみこみ、屋上に転がっていた小さな先のとがった小石を手にした。



それをコンクリートの床にガリっとあてて、動かし、書いた。



白く削れた小石の文字。



「愛しい」の文字。



小石を近くに放り投げると、俺の隣で立ったままの仁王先輩を仰ぎ見る。



仁王先輩の視線は、俺の書いた文字を追っていた。





「・・・・これ、なんて読むか知ってます?」





仰向けで瞼を閉じていた屋上。



仁王先輩が来る前だった。



ふと思い出したそれは、酷く胸に残り、頭に残り。



仁王先輩は表情を変えずに、かすかに瞼を伏せて目を細めた。





「・・・・‘いとしい’」


「違いますよ。」


「・・・違う?じゃあ、なんて読む。」





仁王先輩は小首をかしげて俺を見た。



俺は仁王先輩を仰ぎ見ていた首を動かして、「愛しい」の文字を目に映す。



ごほんっと一つ咳払い。



俺は得意気な声を出し、小さく笑った。



自嘲するかのように。








「・・・諸君。‘愛しい’という言葉を知っているだろうか。


知っているならばどうかぜひ、この言葉を‘いとしい’などと読まないでくれ。


‘かなしい’と読んでくれ。


事実、これは確かにそうとも読む。


愛とはかなしいものなのだ。


‘悲しい’‘哀しい’ものなのだ。」








俺の言う文章は正確じゃない。



だいぶ前に読まされたから、うっすらと覚えてる内容。



それから、やけにえらそうな書き方だったことを踏まえた上での完全なる俺のオリジナルだった。



俺はもう一度顎を軽く上げて、視線をあげて、仁王先輩を見る。



帰ってきた仁王先輩の言葉に、俺はかすかに驚いた。





「お前さん、そんなの覚えとるんか。意外に授業真面目に受けとる?」


「・・・仁王先輩、これ知ってた?」


「確か1年の秋に授業でやった、やけに腹の立つ評論。・・・ああ、腹が立ったから覚えとるのか、俺も。」


「・・・じゃあ、なんで‘かなしい’って読まなかったんすか?」





俺の得意気な鼻を折るの、好きでしょう、あんたは。



いつも先手打って、どんなにくだらない俺のひっかっけもかわしていくくせに。



そんなこと、考えてた。






「・・・・・‘かなしい’なんて読まん。」






雲ひとつない晴天。



太陽の光と青い空がまぶしい。



けれど暑いのではなく温かい。



サボるにも昼寝をするにも、今日はまさに絶好のなんとか日和だったわけだ。





















「誰かを想うことは、哀しいことじゃなかよ。赤也。」




















あの日見たブン太さんの目の奥に映るもの。



赤く染まるすべて。



それは夕日を映した赤い目の兎。











「・・・赤也はそれを‘かなしい’と読むのか。」


「・・・・・・・」


「お前さんのに対する気持ちは‘かなしい’のか。」











・ ・・違う。




(そんなこと、ない。)




悲しいなんて。哀しいなんて、想ったことはない。



あの笑顔を初めて見たときから、そうやって笑っていて欲しかった。



いつも笑ってくれる、一生懸命なさんが好きだった。



だから、願ったんだ。



願えたんだ。



その笑顔に、もう一度逢えるなら。



なんだっていいって、思ったんだ。



仁王先輩の目が、俺を見据えていた。



俺は仁王先輩から顔を背けると、「愛しい」の文字を見る。





「(・・・いと、しい)」





それは、夕日を映した赤い目の兎。



見たんだ。



人を想うってことを。



見たんだ。



残酷すぎて、綺麗過ぎる別れを。



赤い海に溺れていくかのよう。



かすれる声。



きっともう、言葉にすることさえ辛いのに。



最後に、伝えたくて、伝えたくて。



‘幸せに’って。伝えたくて。





(・・・・ブン太さんじゃなくて。)





それは、俺だった。



赤い目の兎。



だって、笑って欲しかったんだ。



あの人だってそうだった。



本当に心から、幸せになってほしかったんだ。



それを願ったんだ。







「・・・・俺・・・・」







「愛しい」の文字。



仁王先輩を見ることなく、俺の言葉は、






「俺、・・・・・本当はっ・・・・・」






続かない。



本当は・・・・・。


































































































































(俺が笑わせてあげたかった。)




























































































































































































































「かなしい」なんて言わせないで。



「いとしい」と言わせて。



それは、夕日を映した赤い目の兎。



兎の声は「愛しい」。



そう叫びたかった。



いとしい、と。








選択肢は、ゼロだった。



俺は知らないんだ。



どんなに願ったって。どんなに想ったって。



さんがどうしたら笑ってくれるかわからない。



でも、ブン太さんなら。



ブン太さんなら、さんを笑わせてあげること、できるから。



だから、背中を押せたんだ。



さんが、好きだったから。



白い蝶が、風にのってやってきた。



俺と仁王先輩の周りをしばらく飛ぶと、どこかに飛んで消えてった。






「・・・・・・」


「・・・・ちょっと」


「ん?」


「何してんすか。」






気付けば、俺の頭を仁王先輩がなでてた。



俺は仁王先輩を睨み見る。



仁王先輩は俺ににこっと笑った。









「お前さんも、ちゃんと考えてたんじゃな。」









バカに、しやがって。



柔らかい笑みに、からかわれてるとしか思えなかった俺は、



仁王先輩の俺の頭を撫でる手を振り払うと、



しゃがんでいたその場から立ち上がる。





「・・・当たり前でしょうが。」





考えてた。



ずっと、考えてた。






































「赤也!仁王くん!」


「「!!」」





聞こえた声に、急いでそっちを見た。



屋上の入り口を開けたさんが、弁当箱を片手に俺たちのほうに駆け寄ってきてくれた。






「さっきの授業、ここで2人でサボってたでしょ?」


「バレとった?」


「見えたんだよ、二人とも。グラウンドから。」


「・・・さん。」


「ん?」






人を想うことは。



人を好きになることは。









「・・・・こけそうになってましたね!」


「みっ・・・見てたの?」


「「しっかり。」」










さんは困ったように赤くなってうつむいた。



恥ずかしそうにして、それから。





「きょっ今日ね!レギュラーみんなで屋上でお昼食べようって!赤也も仁王くんもお昼持ってきて!」


「・・・ごまかしました?」


「・・・・・・・」


「あははっ。さん赤ぇー。」


「・・・赤也のバカ。」





怒ったように俺を睨み見るけど、



次の瞬間には、思いきり笑うさんがいた。



俺の心臓は、一度大きく脈打って。



小さく小さく締め付けられる。





(・・・よかったんだ。)





よかった。



また、その笑顔に逢えたから。



誰にも気付かれないように、俺はそっと胸元を掴んでいた。



苦しいのかうれしいのかわからないこの感情を、誰にも打ち明けるつもりはない。









。お前、教室で待ってろって言ったろぃ。」


「ごめんっ丸井くんが先に屋上行ってるのかと思って・・・・・」


「・・・今度は、ちゃんと待ってろよ。」


「うん!」










だから。



だから、いいんだ。



その代わり、今度泣かせたりしたら。





(・・・絶対に奪ってやる。)





いいんだ。



‘愛しい’んだから。



いいんだ。



ずっと、その笑顔が大切だったんだから。



いいんだ。



これが、俺の人を好きになるってこと。



いいんだ。



それを願えるくらい、



100%どころかどうしようもないくらい、好きになったんだから。








(・・・いいんだ。)









あなたが、笑っていてくれるから。



俺が書いた「愛しい」の文字を、靴でこすってかすれさせた。



それをかき消すことは、できなかったけれど。



この想いは、



‘かなしい’んじゃなくて。














































































































































































(‘いとしい’んだ。)
































































End.