朦朧とした意識ははっきりしたものに変わり、
うなされるような気だるさは、汗をかいた程度の疲労感に変わった。
「・・・・・今、何時だ・・・・・」
しっかりとした記憶。
風邪をひいて。ここは保健室。俺はベッドの上。
目覚め、横になっていた体を起こした上半身。
「・・・・・・・・・・・・・」
俺の手を握っている存在が、イスに腰掛けたまま。
俺のベッドに伏して寝ているのに気付いた。
『未完成な時計5』
握られていた手をそっと動かす。
動かして、俺よりも小さな手を握り返す。
伏せられた瞼。長いまつげ。白い肌。形のいい唇。
その寝顔を目に映しながら。
暖房の利いた暖かい保健室。
「・・・・本当はもう、俺のものなんじゃねえのかよ?・・・・・・」
そっと握り返した手の温度。
暖かく、細く。
静かに口角をあげて問うその声に返ってくるのは、小さな寝息。
ベッドに伏したその寝顔さえも綺麗な。
ふいに駆られた衝動を止めようとは思わなかった。
保健室のベッドから体を動かして、いまだ眠るの顔に自分の顔を近づける。
伏せられた瞼。長いまつげ。白い肌。形のいい唇。
その唇に。自分の唇を合わせようと近づく。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
聞こえる小さな寝息に、いつものの強気な態度は微塵もなかった。
触れる寸前で、触れられずにいる唇。
(・・・まだ・・・)
まだ、俺のものになっていない。
だから。
顔をから離し、手を握っているほうとは、別のほうの手で、の髪をといた。
「・・・ん・・・・」
さらさらと落ちていく髪が自分の頬にかかったのだろうか。
くすぐったそうに、眠っていた顔を少しゆがませる。
俺は保健室の壁にかけられていた時計を確認する。
うっすらと開いた瞼。
そいつに向けて笑った。
「・・・・・・・・・・おい。このままお前と一緒に寝てやってもいいが、覚悟はできてんのか?。」
「(!!)」
その瞬間。
ばっと勢い良く、ベッドに伏していた自分の体を、が起こさせた。
そのあまりの勢いの良さに目を見開いた俺。
だが、俺と同じく目を見開いて俺を見ていた。
「もう具合大丈夫?景吾。」
俺が起きていることに、驚いたままの表情でがそう言うから、
俺は小さく噴き出した。
「・・・ああ。誰かさんがずっと手を握っていたおかげらしいな。」
がその言葉を聞いて、俺の手から手を離そうとしたが、
俺はの手を強く握ってそれを許そうとはしなかった。
俺がの顔を見たまま笑う。
目を合わせると、があの不敵な作り物の笑みを顔に浮かべた。
「・・・・なあに、景吾。そんなにあたしと手を繋いでいたいの?」
「お前から繋いだ手をわざわざ離すこともねえだろ?」
「繋いでる必要がどこにあるの?」
「・・・・少なくとも俺にはある」
精巧すぎるその笑み。
合わせた視線はそれることはない。
「お前の傍にいるってことだろ?。他の誰でもない、俺だけが。世界中の誰より、お前の近くにいる。」
不敵に笑うのはお互い。
俺の言葉はお前を落とすために選んだ言葉。
はそれを理解している。
睨み合いに似た見つめあい。
手を繋いだまま。
・ ・・・・・だが、次の瞬間。
「・・・・・・?」
の笑みに陰がさした。
くもり、瞳が揺らぎ。
が俺から視線をずらし、うつむいた。
いままで何度同じ状況になっても、が自分から視線をそらすなんてなかった。
こいつは負けず嫌いで。
「・・・?」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・どうかしたか?」
「・・・・・・・・別に。」
俺と繋いでいる手とは逆の手を口元に添えて、俺と視線を合わせることなく、が答えた。
何かに戸惑っているような、困惑した、
そんな、初めて見るの姿だった。
「・・・時間だ。」
「え?」
「部活だ。このまま行くぞ。」
「景っ・・・・・・・」
このまま。・・・手を繋いだまま。
を引っ張るようにして俺は部活に向かった。
どうして、こんなゲームを思いついたのだろう。
そんな疑問はいまさらだった。
陰る笑み。・・・気にならないわけがない。
「・・・・・・・・・・・・・」
俺は、お前を落とせればそれでいい。
どんなゲームにだって勝つのは俺だ。
なのに、何があってもただ本当に。
今の俺は、と繋いだ手を、離す気になどなれないだけだった。
「うわっ寒っー!!寒っー!寒っー!寒っー!寒っー!!」
「ジロー・・・・うるさいわ。寒いのはわかったから連呼すんなや・・・」
「いやーでもこれはマジさみーよ、侑士。」
「せやなぁ。手ぇかじかんで、ラケットもうまく握れへんわ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
吐き出す息は片っ端から白く立ち上る。
冬の深さが増していくコートの上は、どんなに走り回っても、
指先だけは暖めてくれない。
放課後の部活。
休憩の声をかけようとする前に寒さはピークに達していた。
「・・・・・これだけ寒かったら、もうじき雪が降るかもしれないね。」
そんなジローの声が俺の耳に届く。
寒空を見上げれば、そこには、雲ひとつなく。
雪などまだ遠い話のように思えたが、冬の確かな寒さだけは、この身に染みていく。
(・・・・雪が、降れば。)
それは、このゲームの終わり。
俺が決めたタイムリミット。
俺があいつを落とすのが先か。あいつが俺を落とすのが先か。
時計の針は正確に時を刻み、雪が降るときに、少しずつ時間は近づいていく。
・ ・・・雪が降れば。
といることは、もうなくなる。
「・・・・・・・・・・・・・・」
コートを囲むコンクリートの階段。
群れるギャラリーの中での姿を見つける。
相変わらず寒そうに、制服のブレザーの中に着たカーディガンの袖で、手元を覆っていた。
(・・・・そんなこと、わかりきってたじゃねえか。)
雪が降れば、ゲームは終わる。
だが、もしこのまま引き分けに終わったら。
俺もあいつもどちらのものにもなることなく、雪が降ったら。
あいつのあの張り付いた偽者の笑みはどうなる?
仮面のように精巧な、愛想笑い。
あの笑みは、ずっとあのままなのか。
(・・・・・・・・・・・関係ねえか)
俺には、関係ない。
俺はただ、このゲームに勝てればそれでいい。
「休憩!!」
それで、いい。
「なんや、跡部。お前初めて風邪ひいたんやて?」
「・・・・・・・・・・おい、。」
「・・・・・・・ばれたか。」
「お前以外に誰がそれを知ってんだよ。勝手なこと話すんじゃねえよ」
「だって忍足。そんなの誰だって驚くよね。風邪引いたことないなんて。」
「せやなぁ。そんなん誰かに話すしかないな。」
「・・・・・・・・・・・・・」
休憩時間。
榊監督と次に何の練習をするか、軽く話し終えた俺に、忍足が声をかけてきた。
忍足の近くにいたのは。
コンクリートの階段の、コートに一番近いところまで降りてきて、
そこでは忍足と話していた。
白い肌は白いまま。
吐き出す息が立ち上るのが、やけに寒そうに見えた。
「・・・・で?初めての風邪に負けた感想は?跡部。」
「負けてねえよ。むしろ勝ったんだよ。」
「負けじゃないの?景吾。」
「あん?俺が負けるかよ。」
「へぇ」
くすくすとが笑う。
忍足があきれたように肩をすくめ、笑って見せた。
俺はそんな忍足を睨む。
「・・・・なんで俺ばっかり睨むねん。なあ、。」
「忍足が景吾に好かれてるからじゃないの?」
「跡部が好きなんはお前やろ?」
「・・・・・・さあ。そうなの?景吾。」
の、あの笑み。
不敵に笑い。
瞼を少し伏せ、白い肌にまつげがかかる。
挑発するかのような作り物。
俺は声にはせず、それに笑って返す。
口角を上げるだけの、嘲笑にも似た笑みを。
忍足がそんな俺たちの様子を見て、再び肩をすくめてあきれてみせる。
しばらく、と交わす視線。
(・・・・・・・・・・・・・・え?)
その、瞬間。
の笑顔に、また陰がさした。
くもり、瞳は揺らぎ。
俺から視線をそらすと、うつむき。
口元に手を添えて黙り込む。
何かを考え込むような。
戸惑い、困惑するかのような。
「・・・・おい、っ・・・・」
「ねっねえ、忍足!!こんなに寒くてよくラケット握ってられるね。手、かじかむでしょう?」
「ん?そうやねん。寒くてしゃーないわ。」
(・・・・?)
は忍足に笑顔を向ける。
笑いながら、交わす会話。
相変わらずの愛想笑い。偽者の笑み。
俺はただ、のその笑みをじっと見つめた。
「はずっと保健室にいたん?」
「・・・・景吾の女よけだからね。」
「なんや、ようわからんわ。二人。」
「・・・そう?」
「お似合いやけどな。」
俺の視線に、が視線をぶつけてきた。
忍足から視線をそらし。
あの不敵な笑みで。
俺は、足を進め。さっきよりもに近づく。
手を伸ばせば触れられる、そんな位置まで。
そうしている間に、あわせていた視線はそらされ、
はうつむく。
「・・・・・・?どないしたん?」
忍足の問いに、は答えない。
俺はの傍までいくと、うつむくの髪を手ですいた。
さらさらとしたその髪は、俺の手に少し持たれただけですぐに指を通り抜けていく。
声にはせず、が顔をあげるのを待った。
寒空には、まだ雲はかかっていない。
「・・・・・・・・・・・・・・・景吾・・・・・・・・・」
俺の、の髪をすいていた手がとまる。
「あたしの笑顔って、そんなにおかしい?」
綺麗な髪の向かうに見えたのは、困ったように笑う。
「・・・っ・・」
「・・・・・今日、先に帰るね。」
「おいっ・・・」
とまどい、困惑し、ゆらぎ。
が走り去っていく。
コンクリートの階段を駆け上がり、俺の前から姿を消してしまう。
そんな、初めて見た表情に。
「・・・・追いかけなくて、ええんか?」
「・・・・そんなこと、できるかよ。」
「・・・・・・・・なんでなん?」
こんなもの、ただのゲームだ。
「休憩が終わる。行くぞ。」
ただの暇つぶし。
思いつき。
制限時間がちゃんとある。
ただのゲームだ。
俺にとって部活は、テニスは、
そんなゲームなんかより、ずっとずっと優位な位置にある。
だから、部活を抜けてを追いかけるなんて。
そんなことできるかよ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
勝てればそれでいいんだ。
このゲームに勝てれば。
知らなくたって、かまうものか。
俺には関係ない。
揺らいだ瞳の奥に見た、その寂しさの色など。
End.