ふいに。






日吉の背中の向こうにあった視線と目があった。






・・・なんで。






なんで、あの子は。






なぜ、今にも泣き出しそうな顔をしているのか。






なんでそんなに。

















(・・・悲しそうな顔、してんねん。)














俺を見て、立ち尽くしたまま。














































『Rain2』

















































「・・・・。しばらく病室から出てろ。日吉、ついててやれ。」






しばらくの沈黙を破る跡部の鋭い声が部屋中に響いた。



俺は咄嗟に跡部を確認したが、見えたのは部屋の入り口を見つめる跡部の横顔。



視線の先を追いかければ、さっきまで泣きそうな顔をして立ち尽くしていた姿が、俺に背を向けて



日吉に支えられるようにして部屋を出て行こうとしていた。



日吉はドアを開け、一緒にいるあの子を促して先に部屋から出して、自分も後に続き、



部屋から一歩足を踏み出したところで、確かに俺を見て睨みつけてから静かにドアを閉めた。




(・・・反抗期やろか、日吉。)




・ ・・あの子。



なんで、あんなに悲しそうな顔をしていたのか。



今にも、泣きだしそうな顔・・・・。



君は誰かと聞いただけなのに。



合わさった視線がそらせなかった。



雨の音が、俺の耳に届き。



無意識のうちに握り締めていた手。



爪が食い込んで痛みを感じ、俺ははっとする。



レギュラーたちは跡部を含め、うつむき加減でみんな何かを考えているように見えた。



再び沈黙が走っていた部屋。




(・・・それに。)




俺はきょろきょろと部屋中を見渡した。



端から端まで一面の白と、自分が体を起こし、座っているベッドに。





「・・・なんで俺、病院なんかにおんねんな。」


「・・・・・・事故にあったんだよ。覚えてねぇのか。」


「事故・・・・?」





ぽつりと、つぶやいたかのような俺の疑問に



跡部がいつものように冷静に答える。



それで病院にいるのかと、納得してしまえばそれで終わりだが、



事故にあったことなど微塵も記憶にない俺は、小首をかしげるしかない。





「・・・侑士、お前本当に覚えてねぇの?」


「事故って・・・・俺はねられたん?」


「・・・そうじゃなくて・・・・・・。」





・・・・そうじゃなくて、なんだと言うのか。



体を起こしたままベッドに座り、岳人を見ることで言葉の続きを待ったが、



岳人は俺から視線をそらすと「なんでもない」と言って、俺がいる方とは正反対の方向に顔を背けた。



岳人の様子がおかしい。



俺は岳人に声をかけなおそうと思ったが、そうしているうちに



いつの間にか跡部が俺の枕の上にあるナースコールに手を伸ばし、医者を呼んでいた。












































































































































































































































































「・・・・・・・記憶、喪失・・・・・?」




































































































































































































































跡部は、医者を呼んでから何も言わずにすぐさま病室を出て行った。



病室に残ったのは、俺と岳人、ジロー、宍戸と鳳。



何か声にしようとしても、誰かに話かけようとしても、この場の重たい雰囲気にそれが叶わない。



沈黙は続いた。



窓の外の雨音だけが響く。



誰も俺と目を合わせようともせず、俺にはそれが不思議でたまらない。




(・・・俺なら健康体やっちゅーねん。)




しばらくして、跡部と白衣を纏った医者が一緒に病室に訪れた。



俺は跡部の行動に怪訝な思いを抱き、跡部に視線をやることで問いたが答えはなかった。



跡部が瞼を伏せて、病室の壁に腕を組んでよりかかる。



やってきた医者は俺のベッド脇に立ち、俺は跡部から彼へと視線を送る。



医者は白髪交じりの髪を整え、



物腰の落ち着いたその背格好と年齢にふさわしいだろう柔和な笑みを俺に向けた。





「忍足侑士くんだね。」


「・・・はい。」


「自分の通ってる学校の名前がわかるかい?」


「・・・氷帝学園ですけど・・・。」


「じゃあ、ここにいる君の友達の名前がわかるかい?」


「・・・はい。」


「ご両親の名前は?」


「・・・もちろんわかります。」





何を、聞くかと思えば。



(・・・・一体何を聞きたい。)



医者の言葉の意図がわからない。



その糸を辿れない。



それから胸に聴診器を当てたり、診断を進めた医者は小さく息を吐き、



柔らかな笑みを向けたまま、最後の質問をした。








「忍足くん。君はさんを知ってるかい?」








さっきから、何度もレギュラーたちから聞いている‘’という名前。



咄嗟に浮かぶ、あの泣きそうな顔。




(・・・あの子が、。)




あの、悲しそうな顔をしていた子。



あの子が、なんだと言うんだ。



医者のその質問に、さっきから黙ったままでいたレギュラー達の視線が俺に向いたのがわかった。



・ ・・・‘’を知っているかと聞かれても、俺はあの子がだということしかわからない。



でも、俺は知らない。



あの子のことは知らない。



見覚えがなければ、その名前に聞き覚えさえなかった。








「・・・知りません。」








誰かの息を呑む音が聞こえた気がした。



医者は俺を見た後、跡部の方を見た。





「君の言うとおりのようだね。」


「(・・・・・え?)」


「・・・・そうですか。」


「跡部、何の話やっ・・・・」


「忍足くん、落ち着いて聴いてくれるかい?」





その柔和な笑みが真剣な眼差しに変わり



誰もがその声に、耳を澄ませた。












「君は記憶喪失のようだ。」


「・・・・・・・記憶、喪失・・・・・?」


「とても部分的で特定的なものではあるが・・・・。」












何を、言っているんだ。













「事故の瞬間、強く想っていた部分だけが車に当たった衝撃で忘却されてしまったのかもしれない。」













医者の言葉に俺は目を見開いた。



俺が何を忘れたと言うのか。



ふいに浮かんだ姿は、今にも泣き出しそうな顔。






(・・・・・・‘’・・・・?)






俺が、あの子を忘れているというのか。



とても部分的で特定的・・・。



他に、何か忘れているものがあるだろうか。



他に聞かれて答えられなかったことはあっただろうか。



・ ・・・‘’のことだけ。






(・・・・俺が・・・・あの子を忘れてる?・・・・・・)






ふいに落としていた視線をあげた。



病室にいるレギュラーを見渡し。







「・・・・嘘やろ?」



「・・・侑士」



「・・・俺が何を忘れてるって言うんや?・・・・あの子を、忘れてる?」



「侑士、はっ・・・・・」



「忘れてるんやなくて、知らないだけやろ?元から。」







冗談だろ?



俺をからかおうとしているんだろ?



俺を騙そうとしてるんだろ?



そう問いたかった。



だが、視線を交わす宍戸もジローも鳳も岳人も、跡部でさえも。



真剣な目と真面目な顔をして俺を見返してくる。






「・・・・冗談でしょ?」


「・・・日吉・・・・・。」






静かに開いたドアから、日吉が病室に入ってきて俺を睨む。



ドアがかすかに開いていたのだろうか。



さっきまでの会話は、日吉に届いていたようだった。



廊下にいたのだろう日吉に聞こえていたと言うなら・・・・。





(・・・・あの子にも・・・・・。)





’にも。



今までの会話は・・・・・。






「嘘なんでしょう?を忘れてるなんて。」


「日吉・・・・」


を忘れたフリをしてるだけなんでしょう?・・・いい加減にしてくれませんか?」


「っ・・・・侑士が冗談でもを忘れたフリなんかするかよ!!」


「岳人・・・?」






岳人の突然の大声に、誰もが驚いて岳人を見た。



日吉は岳人を見たまま押し黙り。



俺が見た岳人は、固く手を握り締め、唇をかみ締めてうつむいた。



・ ・・・本当に。




(・・・本当に俺が。)




忘れていると言うのか。



今にも泣き出しそうだったあの子を。



悲しそうな顔をしていた‘’を。



乾いた唇を噛み締める。





「・・・・・あの子、誰なん?」


「侑士っ・・・・・」


「・・・俺の、何?」





見覚えがなければ、その名前に聞き覚えもない。



記憶を探れど彼女はいない。



記憶を辿れど彼女が見つからない。



・・・一体誰だと言うのか。









「本人に直接聞いたらどうだ。忍足。」









跡部の声が、俺の頭を貫いた。



誰を見ることもなく、俺は瞼を閉じる。



・ ・・・思い出せないが、忘れられない。



忘れられない。




(・・・・・・‘’・・・・?)




君が誰か尋ねたときの、悲しそうな顔が



忘れられない。




































































































































































「・・・・あの子と、話がしたい。」















































































































































































































































































































































静寂な空間は、待つには耳が痛かった。



俺の言葉に足音が静かに静かに消えていく。



瞼を伏せたままの俺の耳に、一つ、また一つと遠ざかる足音。



ベッドで体を起こしたまま、俺以外は人の気配のなくなった病室で、俺は待った。




<ガラッ>




あの子を、待っていた。





「・・・・・・・・」





ドアが開く音。



開いた瞼。



視線に入る遠慮がちな姿。



うつむく姿。



病室の入り口で立ち止まる彼女を見ながら、俺は言葉を探していた。



ふいに気付いたその髪から落ちた滴。



聞こえた雨音。










「・・・・・髪、ぬれてる。」



「・・・・・・・」



「・・・ちゃんと乾かさな、風邪引くで?」










見覚えはない。



その名前に聞き覚えはなかった。



俺はこの子を知らない。



・ ・・知らない、はずだ。






「・・・・ごめん。」






うつむく姿。



病室の入り口で立ち止まる彼女を見ながら、俺は言葉の続きを探していた。



心に込み上げてくる感情を、一体なんと呼べばいいのか掴めない。



知らないはずなのに、ただ、彼女を大切に想っている自分がいる気がした。



・ ・・知って、いる?



・・・いや、知らない。







「俺、・・・・君が誰かわからへん。」








俺の言葉に、びくっとはねた細い肩。



小さい彼女の姿が、さらに小さくなった気がして。



また一つ、その髪から滴が落ちる。



・ ・・俺は、君を知らないけれど。



君が、俺を知っているなら。



そのせいで、あんな、泣きそうな顔をしていたと言うなら・・・・。









「・・・・だから、教えてくれへん?君が誰か。俺にとって・・・・」









俺にとって。



君は、どんな人だったのか。



それ以上の言葉はない。



続きはない。



ただ返事を待つだけ。



そのうつむく姿が、病室の入り口から足を動かしてくれるのを。



しばらく続いた沈黙の中。



遠慮がちに、ゆっくりと彼女は俺に近づいた。



ベッドのすぐ脇まで来ると、足を止め。



うつむいたまま声にする。






「・・・私は、・・・若の幼馴染で・・・よくテニス部の練習を、見てた。」






雨音にかき消されてしまいそうな声だった。



細く、小さく、震え。



けれど、よく通るその声は、俺の耳にはっきり届く。











「侑士は・・・・侑士とはっ・・・・・・・・・・・・・・・・」











震える呼吸の向こうで、彼女は言葉につまっていた。



細い肩、握りしめられた小さな手。



髪から時折落ちてくる滴。



震える体と声に、俺は、近くにあった毛布を手にとって



うつむく彼女の肩にかけた。







「(!)っ・・・」


「・・・寒ない?」







俺の言葉に、彼女が顔をあげる。



驚きに目を丸くさせ、震える体に、必死に力を込めているようだった。



・・・また。



泣きそうに見えた。



かすかに、目元に涙が浮かんでいる気さえした。





「私っ・・・・」


「・・・・・・・・・」





俺と目があっていることに気付くと再びうつむき。



震えるその声は、芯を強くさせ、



俺の耳に確かに響く。































































「私っ・・・・侑士の彼女だったっ・・・・・」































































































































目の前の彼女は、震えていた。



泣きそうな顔して震えていた。



その声も、その言葉も、嘘だなんて思うことさえなかった。



思うことなど、できなかった。



この病室で閉じていた瞼を上げたとき。



俺の手を握っていたのは、確かに彼女だった。



俺の名前を呼んでいたのは、確かにこの声だった。





(・・・・きっと。)





きっと彼女はとても。



大切な人だった。



とても。



・ ・・・とても。







漠然とした思い。



なぜ、こんなことを思うのか。



それさえ、掴めないのに。



この感じは、何だ?



その姿に覚えはない。



その名前に聞き覚えはなかった。



なのに。




(・・・なのに。)




君を知らないはずなのに、























































































































































抱きしめてあげたかった。























































































































































































































































「・・・待っててくれへん?」


「・・・え?」





心は、何を想う。



(・・・ただ。)



彼女は。



・ ・・は、顔をあげて、目を丸くさせて俺を見ていた。



俺はそんな彼女に笑って返した。











「ちゃんと、思い出してみせるから。」











俺はただ、



泣きそうな顔ではなく、の笑顔が見たかった。



寒さではなく、知っている者が自分を忘れているその怯えからやってくるだろう震えを、とめてあげたかった。



うつむくのではなく、視線を交わしたかった。



は、俺の好きだった人。






(・・・・思い出したい。)






大切だと想ったのは、なぜなのか。



弱まる雨の勢いに、俺は窓の外を見ることなくを見た。



は目を丸くして、驚いたまま俺を見ているだけだった。





「・・・って呼んでもええ?」


「・・・えっ・・・・うっうん・・・・」





・・・思い出したい。



思い出したい。



俺はを知らない。



でも、きっと。



きっと彼女はとても。



大切な人だったから。



とても。



・ ・・・とても。






漠然とした想い。



・ ・・思い出せないが、忘れられない。



忘れられない。



君が誰か尋ねたときの、悲しそうな顔が



忘れられない。



泣きそうな顔ではなく、の笑顔が見たかった。



寒さではなく、知っている者が自分を忘れているその怯えからやってくるだろう震えを、とめてあげたかった。



うつむくのではなく、視線を交わしたかった。



だから。



思い出したい。



その姿に覚えはない。



その名前に聞き覚えはなかった。



なのに、俺は。



君を知らないはずのに。








































































































































































抱きしめて、あげたかった。

























































































end.