頭の上一面に灰色にまぎれて白くかすむ空。
今にも泣き出しそうになのに、必死にこらえる子供みたいに。
今にも降りだしそうで降らず、雨の気配だけを漂わせる。
「・・・・テニスに関しては支障ないんだね。忍足」
「ジロー、起きてたのか?」
「跡部達がずっと試合見てるんだもん。誰がやってるのか気になるCー。」
「・・・忘れたのは、本当にさんのことだけなんですね。」
「それ以上言うなよ、長太郎。」
「・・・・侑士。」
コート中の視線を一心に受けているのは、レギュラー達の鋭いまでの視線でわかっていた。
「(・・・それにしても見すぎやろ。)」
コートに、俺の打ったテニスボールの小気味いい音が響いた。
『Rain3』
精密検査を受け、一日の入院のあと。
俺はすぐさま退院した。
大きな外傷はこれといってなかったからだ。
退院した翌日。
こうして朝の部活にでたが、事故の後初めてテニスをする俺にみんな注目していたようだった。
手も足もいつも通りに動くし、ゲームメイク、自分の考え方。
別段何も変わったとは思っていない。
テニスに関しても朝からの生活に関しても支障は何もなかった。
・ ・・・ただ。
「侑士。教室行かねぇの?」
「・・・岳人。」
「ん?」
岳人とは同じクラスだ。
だからいつも朝の部活が終わると、こうして一緒に教室に向かうのが日課。
・ ・・・の、はずだ。
「・・・っていつも練習見に来てたんちゃうの?」
「・・・・・・・・・」
俺は周囲を見渡したが、今朝の練習が始まってから探していた姿はどこにもなかった。
部活が終わった部員もギャラリーを作っていた女子生徒も、
みんな今朝のHRに向かうために校舎に向かって歩を進めるが、
その波の中で俺と岳人は少なくとも多くの注目を受けながら、その場で足を止めていた。
「・・・は他校との練習試合とかは見に来るけど、朝も放課後もいつもの練習は滅多に見に来てなかったぜ?」
「・・・・そうなん?」
「はっ早く教室行こうぜ侑士!遅刻するぜ?」
俺の前をたたっと軽く駆け出し、少し離れたところで普通に歩き始める岳人。
(・・・見に来てないんか。)
と2人で話を終えた病室にレギュラー達はやってきて、跡部を先頭に今日は全員帰ると告げた。
は、相変わらず俺を睨みつづける日吉に支えるようにして病室を後にした。
誰も特にと言って俺に聞いてくることはなかったので、どんな話をして、俺がに何を言ったか。
勘付いている奴はいても、正確に知ってる奴はいなかった。
記憶喪失だと、告げられた。
事故にあったことさえ覚えていなくて、俺の名前を呼ぶ声が聞こえて
目を開けたら、俺の手を握って嬉しそうな顔して泣きそうになってる子がいて。
その子が誰だか、わからなくて。
「・・・・・・・・・・・」
でもその子が、とても大切な気がしてならなかった。
抱きしめてあげたくて。
思い出したいと思った。
校舎の中に入り、長い廊下を歩けば、俺たちのクラスの教室の前で
俺の前を一足早く歩き始めていた岳人が、その扉を開けた。
岳人の姿が教室の中に消えると「おはよう」と飛び交う声が聞こえてきた気がした。
俺も教室のドアを開け、そこに足を進める。
「あっ!おはよう!忍足!!」
「ねぇねぇ、事故ったんだって?大丈夫?」
「うっそ?忍足事故ったの?」
「いついつー?」
俺が教室に入ってドアを閉めた途端、俺を取り囲むようにして寄ってきた女子たちの輪。
飛び交う高い声に耳が痛かった。
俺の返答を待つことなく間髪いれずに騒ぐ彼女たちに俺は溜息を一つ吐くと、
少し声色を変えた。
「おはようさん。体はもう大丈夫やねん。心配ありがとな。」
にこっと笑えば、俺を囲んでいた彼女たちの動きが止まり、
俺はその場から動かない女子たちの輪を抜けて、俺の席に向かい座った。
ふと目に入った窓の向こうの空の色は、今朝から変わっていない。
俺の入ってきた入り口のほうを見れば、女子たちは顔を赤くしてまた高い声でざわついていたので
俺は肺に溜まっていた空気を全て吐き出すかのように再び溜息を漏らした。
俺の斜め前に座る岳人に視線を向けると肩を叩き、切り出す。
「なぁ、岳人。」
「ん?」
「・・・俺あの子達の名前、誰もわからへんのやけど、これも記憶喪失のせい?」
「・・・それこそ元から知らなかっただけじゃねぇの?」
一度教室の一角で騒いでいる‘あの子達’に岳人が目を向けた。
その視線のまま俺のほうに振り返ると、小さく苦笑いしながら答える。
俺の今の気分にはその苦笑いがちょうどよかったから、俺もまた「さよか」と苦笑いで答えた。
ぐるっと見渡した教室の中。
(・・・・は、)
同じクラスじゃないのか。
今朝から探し続ける姿を未だに見つけることができずにいた。
「・・・岳人。」
「ん?」
「何組なん?」
「・・・ジローと一緒。3組。」
「・・・ふーん。」
再び俺に振り向いた岳人は、俺の素っ気無い返事に再び苦笑いを見せた。
それと同時くらいか。
HR開始のチャイムがなり、担任が教室に入ってきた。
静かになった教室で、教卓に立つ教師の連絡だけが響く。
(・・・・3組か。)
テニスの練習を見に来るわけでもないのに、同じクラスでもないのに。
・ ・・俺とは、どうやって付き合うようになったんだろうか。
どんな出会い方をして、どんな話をして。
俺はを好きになったんだろうか。
ふいに見た窓の外が、降りだしそうで降り出さない雨の詰まったままの空で、
病院でのの、今にも泣き出しそうな顔を思い出した。
・・・記憶喪失。
思い出すこともできない目の前のその子を
抱きしめてあげたいと思った。
思い出したいと思った。
それは、衝動だった。
あまりにも突然で、唐突な、その場の想い。
零れた声。
不思議だった。
考え始めれば、それは深まるばかりだった。
(・・・だって、俺は・・・・・。)
俺は。
「ねぇねぇ、忍足。事故ってさ、怪我なかったの?」
「ちょっとな。」
「えー。あたし知ってたら看病行ったのに。」
「ありがとな。」
「忍足、今朝は部活やってたよね。もう大丈夫ってこと?」
「平気。」
「えー、じゃあさ・・・・」
休み時間のたびに席の周りを囲まれれば、身動きもうまく取れなかった。
けれど、それは俺の日常の中で見知った光景であり、見慣れた光景だった。
名前も顔も覚える気がないクラスメイトの女子。
繰り返される似たような質問に、愛想笑いで返しては、なんてことのない答えを返していく。
(・・・・面倒くさい。)
だから、話しかけるなとか近づくなとか。
それを声に出せるほど、自分をえらい人間だとは思わない。
こんな、その場しのぎの会話で彼女たちが満足するならそれもいいのだと思う。
こんなつくり笑顔でいいのなら、とても安い人付き合いで楽だった。
(・・・・・俺は。)
こういう奴だから。
踏み込まれることも踏み込むこともない人間関係。
当たり障りなく、
表面だけの付き合い。
それはとても楽だった。
あきないくらいの距離。
あきれないくらいの距離。
疲れることもなく、けして悩むこともない関係。
関西からこの学校に転校してきて『信頼』や『仲間』なんて言葉で繋がってもいいかと思ったのは
テニス部のレギュラー達くらいだった。
テニス部のレギュラー達は、一緒にいることが苦ではなかった。
それは苦楽を共にしてきた奴らだからなのだろうか。
岳人なんかは素直で単純で。
飾らない奴には、何も飾る必要がなかった。
上辺だけの愛想笑いさえ、見せる必要はなかったから。
けれど。
レギュラーだからと言って自分のことに深入りなんて、させたこともなければ、したこともない。
どこか。必ずどこかに線を引いた。
人と、自分との間に。
あきないくらいの、あきれないくらいの距離を置こうとするのが、俺のくせ。
それはとても楽だった。
・・・・だから、不思議だった。
思い出すこともできない目の前のその子を
抱きしめてあげたいと思ったあの日。
思い出したいと思ったあの日。
それは、衝動だった。
あまりにも突然で、唐突な、その場の想い。
零れた声。
「ちゃんと、思い出してみせるから。」
不思議だった。
考え始めれば、それは深まるばかりだった。
(・・・だって、俺は・・・・・。)
俺は、こういう奴だから。
だから、誰かを大切に想うなんて。
そんな自分がうまく想像できなかった。
「・・・侑士?」
「・・・・・・・・・・」
「おい、侑士!!」
「・・・岳人。今、呼んだ?」
「・・・・次、移動教室だぜ?早く準備しろよな。」
「はいはい。」
俺がくすくすと笑うと、からかわれてるとでも思ったのか。
すねた顔した岳人がそこにいた。
それがまたおもしろくて笑いなおした俺。
「・・・ジローと一緒。3組。」
「(・・・・・・・・3組か。)」
「侑士ー?先に行くからな!!」
「すぐ行くわ。」
のクラスを聞いてすぐに会いに行けなかったのは、
とまどっていたからだ。
思い出したいと思った自分。
ちゃんと思いだしてみせると告げた自分。
泣きそうになる彼女を抱きしめたいと思ったのは、嘘なんかじゃなかったのに。
誰かに、踏み込もうとしている自分が。
誰かに、踏み込まれることを許そうとしている自分が。
・ ・・・なんだか、笑える気がして、仕方がなかったんだ。
でも。知りたかった。
・・・知りたかった。
いつもなら、木漏れ日の差す廊下の窓の外が、降りだしそうで降り出さない雨の詰まったままの空で、
病院でのの、今にも泣き出しそうな顔を思い出した。
(・・・・会いに、行こか。)
この授業が、終わったら。
今朝からずっとその姿を探していたのも、
本当だった。
その授業の終わりのチャイムは、昼休みの始まりを告げるものでもあった。
「あ。忍足。」
「ジロー。あんな・・・・・」
「ー!!忍足だよー!!」
教室一杯に響くジローの無邪気な声。
のクラスの教室を開けようとしたとき、ちょうどジローが廊下に顔を出した。
俺の顔を見るなり、を呼んでくれたジロー。
俺はジローにそう頼もうとしていたところだったからちょうど良かったと言えばそうなのだが、
あまりに大きな声での名前と俺の名前を呼ぶから、思わず苦笑してしまう。
開けられたドア。ジローの姿の向こうに見えた教室の中で、
突然の呼び出しにきょとんとした顔を見せるがいた。
ジローの声に静まりかえる教室。目が合えば、俺はその場からを呼んだ。
「昼、一緒に屋上行かへん?」
しばらく固まったかのように動かなかったは、はっとすると
自分のカバンなのだろう、近くの机に掛けられていたカバンの中から小さな袋を取り出して
俺のいる教室の入り口に駆けてきてくれた。
手にしたのはきっとの昼食なのだろう。
「、。よかったね!!」
近くにいたジローの言葉が、の頬を赤くさせた。
俺の目の前で、かすかにうつむいたが小さくうなずいた姿が、
妙に、うれしかった。
「行こか。」
の顔を覗き込むようにして言えば、が再びうなずく。
俺が先に歩き出すと、はあとをついて来てくれた。
屋上につづく階段を昇り、その先にあるドアを開ける。
頭の上一面に灰色にまぎれて白くかすむ空。
今にも泣き出しそうになのに、必死にこらえる子供みたいに。
今にも降りだしそうで降らず、雨の気配だけを漂わせていたが、
空気は乾き、気温は半そでの制服を着ている分にはちょうどよかった。
「・・・・今日。お昼のミーティングなかったんだね。」
「いつも昼は一緒だったんちゃうん?」
「・・・・忍足君がテニス部の用事がないときは、たまに。」
「・・・・・・・」
この前は。
・ ・・・この前は病室で、侑士と、呼んでいたのに。
が『忍足君』と呼んだ声が、やけに俺の耳に響いた。
俺と以外誰もいない屋上で止まってしまっていた足を、屋上の真ん中に向かって進めた。
そんな俺のあとを、が少しずつ付いてくる靴音がした。
テニスの練習を見に来るわけでもないのに、同じクラスでもないのに。
・ ・・俺とは、どうやって付き合うようになったんだろうか。
どんな出会い方をして、どんな話をして。
俺はを好きになったんだろうか。
(・・・俺は。)
俺は、こんな奴だから。
誰かを大切に想う自分なんて、うまく想像できない。
でも、は俺に嘘をついていない。
俺は、が好きだったはずだ。
を知っていた俺を、だって好きになってくれたんじゃないのか。
・・・だったら、
君の記憶がない俺は、君にとっては何?
「・・・‘忍足くん’て。」
「・・・え・・・・」
「この間は‘侑士’やったやん。」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
に振り返ることなく問いた。
・・・・いや、ただ単に確認しただけだ。
に聞いたんじゃないし、に問い詰めたのでもない。
ただ、胸の奥がちりちりと痛んだ。
返ってこないの声。
目にした屋上を囲むフェンスの向こう。
今にも泣き出しそうだった、あの日の君に似た空。
「・・・食べようか。は弁当?」
繕った笑いは、に向けてだった。
もう、あんな顔させたくない。困らせたくない。
そう思って、無意識に繕った笑みだった。
思い出したい。あの時確かにそう思ったんだ。
大切だと。
抱きしめてあげたいと。
ふいに目が合えば、は静かに笑い、ゆっくりと声にする。
「・・・知らない人に、呼び捨てにされるなんて。」
確かに、俺がを覚えていないなら。
俺にとってはは知らない人同然だった。
「・・・・・・忍足くん・・・なら、嫌がると思ったから。」
だからね。
そう聞こえた声は、俺に向けられたの笑顔に消えていった。
哀しそうに笑ったの、その笑顔に。
「そんな風に、笑わなくていいよ。」
そんな風に、繕って笑わなくても。
この、感じ。
この笑顔。
この言葉。
(・・・・どこかで。)
「そんな風に、笑わなくていいのに。」
前にも、どこかで。
俺の頭を横切った映像は、一瞬にして消えていく。
頭の底で聞こえた声は、確かにの声。
「・・・・・・・・・・・」
「たっ食べよっか!!」
ちりちりと胸の奥が痛む。
が無理やり笑ってる。
ぎこちなさが、2人を纏って。
とまどいばかりが、胸を貫いていく。
俺がの記憶がないことに関して
は、俺に何も言わなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・」
2人して昼食を食べ終わり。
沈黙だけが響いていた屋上で、は突然立ち上がり、
フェンス近くまで歩いていくと、今にも降りだしそうな空を仰いだ。
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・知り、たい。)
のことが、知りたい。
小さくて頼りないその後姿。
胸の奥が焦がれそうなほど痛み。
の傍に行きたくて、隣に行きたくて。
それはあのときの衝動と同じ。
君を思い出したいと思った衝動と同じ。
「・・・・・。」
「・・・何?」
の名前を呼んで、その隣に立った。
俺の顔を見るを俺は見ようとしなかった。
「・・・なんでもない。」
テニスの練習を見に来るわけでもないのに、同じクラスでもないのに。
・ ・・俺とは、どうやって付き合うようになったんだろうか。
どんな出会い方をして、どんな話をして。
俺はを好きになったんだろうか。
君の記憶がない俺は、君にとっては何?
どこか。必ずどこかに線を引いた。
人と、自分との間に。
あきないくらいの、あきれないくらいの距離を置こうとするのが、俺のくせ。
それはとても楽だった。
・・・・だから、不思議だった。
思い出すこともできない目の前のその子を
抱きしめてあげたいと思ったあの日。
思い出したいと思ったあの日。
それは、衝動だった。
あまりにも突然で、唐突で、その場の想い。
零れた声。
「ちゃんと、思い出してみせるから。」
不思議だった。
考え始めれば、それは深まるばかりだった。
(・・・だって、俺は・・・・・。)
俺は、こういう奴だから。
だから、誰かを大切に想うなんて。
そんな自分がうまく想像できなかった。
「(・・・・・知りたい。)」
だから、知りたい。
のことが知りたい。
大切だと想った理由。
ふいに見たその空を仰ぐ横顔に透き通った目を見つけた。
を見つめる俺にが気付き、
が俺のほうを見ようとしたから、思わず目をそらしたけれど。
声が、聞きたかった。
重たい瞼を開けることのできなかったとき、確かに聞こえたその声が。
俺の名前を。
『侑士』と呼んでくれる、その声が。
声が、聞きたかった。
ざあぁ・・・・・・
ついに雨が降り出したのは、午後の初めの授業の途中だった。
梅雨に入りかけているこの時期。
雨の頻度は高かった。
「そんな風に、笑わなくていいよ。」
前にも、そう言ってくれたことがあった。
にも、誰にも言わなかったけれど、
それはきっと、との記憶を思い出したということなんだろう。
本当にわずかでかすかな記憶。
・ ・・・・と付き合っていたこととか、彼女を好きだったことが、思い出せたわけではない。
「・・・・・・・・・・・・・・」
雨の音が、俺の思考をかき消していくようだった。
考えても考えても。
どうしたらいいのかわからなかった。
自分がどうしたいのかわからなかった。
・ ・・・今にも泣き出しそうな顔。
赤くなってうなずいた姿。
あの透き通った瞳。
空を仰ぐ横顔。
彼女は、俺に何も言わない。
思いだして欲しいとか。
何か思い出したかとか。
懇願するでもなく、急かすでもなく。
ただ、傍にいただけだった。
を思い出していない俺に、気をつかってまで見せて。
「(・・・・忍足くん、か。)」
ちりちりと胸が痛んだ。
は、何を想っているのか。
記憶が戻らない俺は、彼女にとって何?
(・・・・・聞きたい。)
知りたい。
雨の音に混ざるチャイムの音。
授業の終わりを知って、俺は勢いよく席から立ち上がった。
「・・・侑士?」
「なぁ、岳人。今日は部活中止やんな?」
「あっうん。・・・この雨だしな。」
岳人の声に俺は笑って返すと、そのまま廊下へと出て行った。
向かうのは、彼女のところ。
ふいに見えた柔らかい金髪。
その姿に俺は声をかけようとした。
「ジローっ・・・・」
ジローに向けて軽く上げかけた手が、そのまま下がった。
俺の足がその場にとどまったのは、ジローと話していた相手がだったからだ。
そのが、見たこともない笑顔だったから。
(・・・・あんな風に、笑うんやな。)
あんなに無邪気に。
無防備に。
俺には到底できないような笑顔で。
透き通ったその目。
気付いた時には、駆け出していた。
「忍足くっ・・・・・・」
気付いた時には、触れていた。
(・・・何やってんねん。俺。)
ジローが小首をかしげながら俺のほうを見ていた。
俺はといえば、の細い手首を掴んでいた。
怖がられると、思った。
合わさった視線。
俺の前ではきっと、あんな風に笑うことはない。
から見れば俺は。
を忘れた、を知らない奴。
なのに。
「・・・どうしたの?忍足君。」
次に見た笑顔は、俺にはもったいないくらい優しかった。
俺の予想なんて、軽く飛び越えて。
突然掴んでしまった手首。
怖がられると、思ったのに。
俺は小さく小さく苦笑した。
「・・・変な子やね、。」
「(!!)」
「・・・どうしたん?」
「・・・・前にも。」
彼女は、俺に何も言わない。
思いだして欲しいとか。
何か思い出したかとか。
懇願するでもなく、急かすでもなく。
ただ、傍にいただけだった。
「前にも侑士、同じこと言ったんだよ。」
笑った彼女が咄嗟に言ってしまったのだろう俺の名前が
どうしようもなく、うれしかった。
「・・・俺、お邪魔ー。」
そう言って笑ったジローが楽しそうに教室に消えていく。
俺はそんなジローを目の端に映した。
よくよく見れば廊下には生徒がたくさんいたが、俺は気にすることをやめていた。
「・・・今日、一緒に帰らへん?」
俺の目の前で瞳を丸くして驚いてみせる。
俺から視線をそらすと、何か考えこむかのようにうつむいた。
その声が、聞きたかった。
俺の名前を呼ぶ声が。
あの笑顔が見たかった。
無邪気で、無防備で、俺には到底出来ないような。
その透き通った目で、もう一度俺を見て欲しかった。
「・・・ごめんね。約束があって・・・・。一緒に、帰れないんだ。」
「・・・・・そうなん?」
「・・・ごめんね、忍足君。」
「侑士でええ。」
「・・・え?」
間髪いれずの声を訂正しようとした俺を
が再び驚いた表情で見ていた。
「侑士がええねん。・・・・・・思い出したいから。」
を、思い出したいから。
そう呼んでいたなら、そう呼んでほしい。
『忍足君』と呼ばれるたびに、
胸の奥がちりちりと痛んだ。
いつも。
どこか。必ずどこかに線を引いた。
人と、自分との間に。
あきないくらいの、あきれないくらいの距離を置こうとするのが、俺のくせ。
それはとても楽だった。
・・・・だから、不思議だった。
思い出すこともできない目の前のその子を
抱きしめてあげたいと思ったあの日。
思い出したいと思ったあの日。
のことをもっと教えて欲しいと思っている今を。
知りたいと思っている今を。
が赤い顔してうなずいてくれる。
それが妙にうれしくて。
ただ、思い出したい。
そう思ったのは、衝動であれ、本心だった。
だから。
「・・・今度、部活が休みのとき。」
「・・・・え?」
「・・・デートしよか?」
End.